-Y NOT 7(ワイノットセブン)-

Y NOT 7

Y NOT 7(ワイノットセブン)
-メンバー-
B:ルンロット・ポンラワー (GOLF) 1968.1.13
Vo:カセム・ウォンサンコン (Neeng) 1970.11.4
G:ターニー・プロムスリー (Goi) 1967.2.8
Dr:タヌー・チュイヌット (Gai) 1970.5.25
G: ピチェット・クルアラン(Chet) 
プロフィール
Y not 7は、最年少のピチェット・クルアランが加わって現在の5人のメンバーになる前、、6人組のバンドだった。ソンクラーン・コンプラヨット、ジンウィット・サンカクン、そして残りの4人は、Y not 7というロック・バンドを結成し、あちこちのパブで演奏してまわった。演奏キャリアを積み、曲を制作し、いつかアルバムを出す機械を希望していた。GRAMMYのプロデューサー、チャトリー・コンスワンの目に留まり、夢は現実のものとなった。
1994年、デビュー・アルバム『Y not 7』は、ロック・ミュージック界を震撼させるものだった。ほぼ100万枚を売り、ロック・マニアから絶賛された。楽しい楽曲「コイ・コイ・プット(そうっと話す)」、ロック・バラードで感傷的な「ティン・ラック・ロン・メーナム(川に愛を捨てた)」や「クリアット・クワーム・ソンサーン(輪廻を憎む)」は、当時の大ヒット曲となった。Y not 7の個性ともなったネーンのボーカルは、ハスキーでかつパワフルだった。コンサートでは多くのオーディエンスを魅了し楽しませた。さらに歌い、踊り、そして舞台を四方まで走るネーンのやんちゃなアクションは、最初から最後まで満喫できるものだった。彼らの実力と聞き手の賞賛は、すぐに、ロック・ミュージック界の新しいジャンルを作り出すものだった。さらに、彼らのキャリアは、Y not 7をタイを代表するアーティストにさせた。
新しいタイプのアーティストを結集してアジアの大きな音楽祭を開催すべく、1996年、Concert Asia Liveが開催された。これは、日本のテレビ局NHKが主催し、10カ国に声をかけた。タイの代表として、Y not 7は、コンサートに招待だれただけでなく、コンピレーション・アルバムにも収録された。
 デビュー・アルバムからほぼ3年後の1997年、彼らのセカンド・アルバム『SIX』はリリースされた。バイオレンス・ロックのスタイルで、よりヴィヴィッドで濃度をました。このアルバムのメロディー・アレンジで、ルンロット・ポンラワー(ゴルフ)は、才能を発揮した。十分な実力で、彼は、ポンポラム・サニトゥアン・ナ・アユタヤーとともにプロデューサーのポジションを得て、一緒にディレクションし、メンバー全員のロック・エモーションを描き出した。ロック・ミュージックとして音楽性とクオリティーの高いボーカルを通じて、このアルバムは、より高度な音楽的発展を見せた。プロとしての存在感を十分に見せつけた。
 1999年、サード・アルバム『Yeah』のときに、メンバー・チェンジがあった。ピチェット・クルアラン(チェット)がバンド最年少のメンバーとなった。彼の実力は、新人離れしたものだった。チェットは、バック・ミュージシャンだった。多くのアーティストのギターを弾いた。LOSO、アム、ウェーン、エーム、サックダーなどだ。そして、Y not 7のアルバム『SIX』のゲスト・ギタリストとなった。チェットは、メンバーとなることを望んだ。そして、さらに変化したことは、5人全員が、歌詞、作曲、アレンジ、歌唱法など、すべての音楽的な面で、セルフ・プロデューサーとなり、楽曲制作をしたことだ。最終的には、レコーディングも家のスタジオで自身でこなし、各人の経験とテクニックは、あらゆる場合にも音楽面での演出となった。需要な変化は、実力を遺憾なく発揮することだ。
 『Never Die』は、彼らの最新アルバムで、『Yeah』と連続してリリースされた。「サループ・ワー・バー(ようするにバカ)」「カム・マック・ガーイ(言葉はいつも簡単)」「コーン・ワイ(積んでおく)」など、彼らが好きな歌を選んで、Y not 7流に歌い、演奏した。さらに、新しいファンと古いファンに味わってもらうために、Y not 7流の中に、元の歌のフィーリングを残した。今日、Y not 7は、明確なオリジナリティとキャラクターを持ち、ロック界に存在している。

Y NOT 7


PALMY

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